アシリパさんの和名を使用する時に少し立ち止まって考えて欲しいことがある。
(最終更新:2022年7月17日、文章校正、初出版の文章を補足)
※ツイッター上で行われていた当時の極端な問題や懸念の矮小化(「所詮は個人のお気持ちである」等)に抵抗する意味合いを含む文章が、背景を知らない読者にとっては不用意で強力な批判に感じるとご意見を頂いたため、論考の結論部分を大幅に修正しました。(2022/06/14)寄せられた質問との整合性を把握するため、初出時の文章を一部補足いたしました(2022/07/17)
※本記事を「アシリパ」の検索結果に載せるため、タイトルの表記を変更しました。現在、アシㇼパ表記は「アシリパ」と関連づけられておらず検索にヒットしない可能性が高いためです。より多くの人にこの問題を考えてもらうための対応です。ご理解ください。以下本文は原則的に「アシㇼパ」表記としております。(2022/06/15)
※質問応答の最下部に言論における「人身攻撃」に関する注意喚起を行いました。(2022/06/16)
全体を通して「差別意識」や「不平等の構造」など、「個人の尊厳」を蔑ろにする状況に言及しているため、読んでいて気分が悪くなった場合などは読むのをやめてください。直接的なヘイトスピーチについては、掲載しておりませんが、特に質疑応答については、質問内容の中に、質問者が無自覚なまま、露骨な差別意識を晒している場合があります。辛くなったら、閲覧をやめてください。また原文ソース(質問箱)リンクを確認する際もそうした言葉が記載されている可能性を考慮した上でご確認ください。
***
本記事は、「ファンダムにおけるアシㇼパさんの和名使用」に関わる議論を記録し、これを新規ファンも含めたゴールデンカムイのファンダムにおいて、継続的に行っていくために記述されている。筆者の質問箱に寄せられた質問、意見は管理できる範囲で、ここに集約していきたい。
以下、2022年6月7日に筆者のツイッター/ふせったーアカウントから投稿し、拡散していただいた論考(6/14:ブログ掲載文、大幅に修正)及び寄せられた質問、意見をまとめる。この問題については、最も早くに2021年の夏頃(ツイート確認済み)から、一部のファンから疑問の声が上がっていた。しかし、今回(2022年5月に入り)、過剰な個人攻撃、ヘイト言論を繰り返すアカウントが出現したことで、一時的な「炎上」状態に陥った。
現在、筆者がふせったーに投稿した以下の文章は5000viewsを超え、関連のまとめツイートには2000を超えるRTが行われたものもあった(2022年6月12日現在)。様々な人が、多様な立場からツイッター上で声を上げている。
ゴールデンカムイという漫画は、その緻密な描写力に魅力があると筆者は考える。登場人物の背景を知ればこその魅力もある。膨大な資料を基に描かれた素晴らしい漫画である。しかし、その描写に傷ついたひとがいる。無意識にひとを踏みにじってしまったひとがいる。現実に私たちが向き合わねばならない問題がある。ファンとして、ゴールデンカムイというコンテンツを楽しむ時、ここに、今、少しだけ、立ち止まって考えてもらいたい。
アシㇼパの和名を使用する際に考えてもらいたいこと(タイトル変更 ・修正済み/初出:ふせったー)
アシㇼパとは、漫画『ゴールデンカムイ』に登場するアイヌルーツを持つ少女である。ファンダムにおける「アシㇼパの和名」使用を巡る議論は、今に始まったことではない。だが、今回、ツイッター上で行われる「議論」を見ていて、この論争に参与し発言している一部の人びとには、そもそも「差別」という状況に関する理解、権利の剥奪や不平等というものに関する理解が不足しているらしいということに気がついた。
アシㇼパの和名を使用したい人々、あるいは、その行為に向けられた批判・懸念を理解できない人たちは、史実や文化の知識が不足していると言うよりも、不平等や人権の侵害という状況を明確に把握していないようである。その認識の不足は、無意識的な、無自覚な「差別的言動」を生み出してしまっている。そこで、この論考では状況の整理と個人の選択権の話に焦点を絞り、表面的な「事実」からは、見えにくい「苦痛」と「倫理」の問題を指摘したいと思う。
まず、アイヌ和名の経緯・史実としては、多くの人がすでに知るように、アイヌ語の名前を始めとした個人と民族のアイデンティティに直結する様々な要素が彼らから剥奪されてきたという背景がある(1990萱野茂『アイヌの碑』:31-58)。元々の生業や生活様式を一切無視した土地の接収と再分配、農耕の強制、日本語による教育強制など、多方面に渡る同化政策(1899「旧土人保護法」)、江戸から続く強制労働*1の結果、人びとは従来の生活基盤を破壊されていった。
しかし、こうした史実の提示は、アシㇼパの和名をみだりに使用することの懸念を理解してもらうために十分ではないようである。そのため、ここでは、いくつかの例を用いて、アシㇼパの和名に関する倫理を今一度問いたい。
『進撃の巨人』に登場した「マーレの腕章」グッツが批判を受け、発売中止になったことは記憶に新しい。この腕章は、作中でも明確に差別と支配の描写、具体的に言えば、第二次世界大戦期にユダヤ人迫害が行われた際に使用された「ダビデの星の腕章」を参考にして描かれたものだと言われている(ダビデの星、それ自体はユダヤの象徴である)。これをグッツとして発売することの倫理的問題は、明白であり、巻末に「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・出来事とは一切関係ありません」と明記されていようとも、差別描写を(物語的に描写することはあり得ても)ファンダムが、エンタメ的に消費することはできないという社会的な同意を得て、収束した(2021年11月16日「「進撃の巨人」マーレの腕章ってそんなにダメなグッズでしょうか?」『Yahoo知恵袋』)。
アシㇼパの和名が、「明確な」差別と支配の描写として描かれていたかどうか、という点に関して、ここでは詳細に議論しないが、少なくとも、アイヌ差別の歴史を知っている者が見ても、その描写は非常にわかりにくかったと言えるだろう。彼女の和名が明らかにされる以前に、杉元を始めとした彼女の仲間が、「アシㇼパの和名」という話題について会話を交わす場面がある(2015『ゴールデンカムイ5』44-45話:「谷垣狩りだぜ」前後)。正体不明の老父が「アシㇼパの和名」について「戸籍上の名前があるはずだ*2」と問うた時、杉元は、「聞いたこともない」と答える。アニメになるとより明確に杉元が不信感を露にするが、それが、アイヌ和名の経緯を知っての嫌悪なのか、正体不明の老父に向けられた警戒心なのかは、わからない。その後、キロランケと遭遇した杉元一行らは、「アシㇼパの和名」が「小蝶辺明日子」であることを知る。ここに至っても、なぜ彼女が「戸籍上の別名」を持っているのかという点に関しては特に説明はなされない。そのため、日本(和人)によって行われた同化政策の一端である可能性に気が付かない読者はいるだろう。
だが、この問題提議に纏わる対話の中で史実を知れば、アシㇼパの和名が差別と支配の状況下で名付けられた可能性を認識することは難しくない。物語の中でも、特に杉元らアシㇼパ側の人間は、彼女のことを一度も和名で呼ぶことはなく、その名前は、彼女の「戸籍上の登録名」以上の意味を持たず、彼女の呼称になりえなかった。
にも関わらず、ファンダムにおいてアシㇼパ和名使用に固執し、その懸念と批判を一切受け入れられないという態度をとる人々が現れたのはなぜか。「アシㇼパの和名」が戸籍に記載され、アイヌ名が戸籍に登録されなかった理由を鑑みて、立ち止まり考えることすらせずに、過激なヘイトスピーチを含む個人攻撃にまで達してしまったのはなぜか。
それはおそらく、その「和名」を使用したいと主張する人間の多くが、和名を持つ、和人であったからという側面があるように思う。つまり、「私は和名を使っているが、何の苦痛も、苦労もしていない」という個人的な感覚に依拠した判断、「和名って悪いものではないでしょ」という自文化中心的な感覚が、アイヌルーツのキャラクターに和名を使用することへの倫理的ハードルを下げ、「私は悪いことをしていない」という早急な結論に達した。
この事態を重く捉え、自身の創作物の取り下げを行った創作者の中には、そもそもそれが同化政策の一端である可能性、現在まで続くアイヌルーツの浄化の再生産になりうる可能性を認識できずに安易に使用してしまっていた、という人もいただろう。
ここでまず理解すべきなのは、アシㇼパの和名使用に対する批判は、「和名」そのものへの批判ではないということである。ダビデの星が批判されようとも、陰陽師の五芒星が批判されることはないように、ナチスの鍵十字が批判されても、地図上の「卍」マークが批判されることはない(ヨーロッパの人々はある程度ぎょっとするようだが)。もちろん現在を生きるアイヌルーツを持つ人々が使用する名前も、各々が愛着を持ち、使用しているものである可能性もあり、他者に批判できるものではない。自分の名前をどう扱おうと自由だし、役所に届け出をして名前を変更する権利さえ、私達には与えられている。
しかし、「アシㇼパの和名」は、物語上(史実上)和人による同化政策の文脈を拭えない。とすれば、その文脈を理解せず、無意識的に、しかも、エンタメとして、マジョリティが消費してしまう行為は、かつての同化政策や現在もつづくルーツの浄化や抹消を当然のものとして受け入れているのではないか、それに加担しているのではないかと懸念されるのである。実際に「現代において『アイヌ語名』の者はいない」というような歪んだ現代観の基に、アシㇼパのアイヌルーツそのものを浄化しようとする態度をとって己の正当化を測るものがいた*3。
表面的な事実が同じでも、その内情を異にする時、一部の正当性をもって、全てを肯定することはできないのである。食物を剥奪され飢餓で苦しむ人と、自らの意思で断食する人では、同じ「空腹」という状況にあっても、与えられている権利は全く異なっている(2006アマルティア・セン『人間の安全保障』:149-154)。「選択ができるか」ということは、非常に重要な権利の問題であり、不条理な空腹に苦しみ、選択の権利(自由)を剥奪されている人に向かって、「空腹の経験ができてよかったですね」と発言することは、明らかに倫理上好ましくない態度とされるだろう。
アシㇼパの和名は、和人の和名、現在のアイヌルーツを持つ人々の名前とは全く異なる文脈を持つ。明治時代に生きるアシㇼパの文脈において「和名」は、彼女(や彼女の父)の選択(自由)が蔑ろにされた状況で、強制されたものである可能性が拭えない。「アシㇼパの和名」文脈を理解した上で行われる個人の判断の是非について、私は立ち入らない。しかし、ここに示された懸念を考慮した上で、今一度、彼女の名前をどうしたいのか、立ち止まって、考えてみてほしい*4。(了)
2022/06/07/12:47 一部加筆更新。
2022/06/07/15:30 タイトル変更、文中参考文献追記等。
2022/06/07/20:20 いただいたご意見を基に、*2/*4を加筆。誤字修正。
2022/06/09/18:32 いただいた質問と回答のリンクを最下部に追記。
2022/06/12/11:00 ブログ「言葉は力」に転載、誤字修正。
2022/06/14/3:12 頂いた意見をもとに(特に文末の表現を)大幅に修正。
(脚注)
*1: 数え12歳で強制労働に駆り出されたトッカラム(萱野の祖父)が、家に帰りたい一心で、自ら指を切り落としたという話は、絶筆に尽くしがたい苦難がそこにあったことを想起させる(1990萱野茂:31-47)。
*2: 土方歳三のセリフによって「アシㇼパの和名」が戸籍上のものであり、通称ではないことが示唆されている。さらに後にアシㇼパは「その名前を知っているのは死んだ母と父だけ」と発言している(2015『ゴールデンカムイ5』)。
*3:「子の名には、常用平易な文字を用いなければならない」『戸籍法』第50条。命名は常用漢字、人名用漢字、カタカナ、ひらがなの範囲内であれば可能であるとするならば、法律上現代に「アシリパ」がいてもおかしくはない。(注)苗字などの問題は未だ解消されていない。
*4:明治38年(旅順攻防戦)前後を生きた「アシㇼパ」の「戸籍上の名前」と現代に生きるアイヌルーツの人々の名前が異なる文脈を持つことを繰り返し留意しておく。本文は「アイヌ和名」ではなく、「アシㇼパの和名」についての論考である。現実を生きる各々に個人的な文脈があることは、全く否定されるべきではない。それぞれが愛着を持った名乗りを得て生きていけることを願う。
(参考文献、引用順、最終閲覧日2022年6月7日)
1899年 「旧土人保護法(明治32年3月2日公布)」『官報』第4697号:国立図書館デジタルアーカイブス(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2947988)
1990年 萱野茂『アイヌの碑』朝日新聞出版
2021年11月15日 19時10分「進撃の巨人」マーレの腕章、販売中止に 「ナチス想起」批判で謝罪:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASPCH67BQPCHUTIL028.html
2021年11月16日「「進撃の巨人」マーレの腕章ってそんなにダメなグッズでしょうか?」:Yahoo知恵袋https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12252584817
2015年野田サトル『ゴールデンカムイ5』ヤングジャンプコミックス
2006年アマルティア・セン(東郷エリカ訳)『人間の安全保障』集英社新書
(初出2022/06/07:るくんねのフセッター下線部伏字「アシㇼパの和名使用問題とは、つまり飢餓で苦しむ人に「空腹の経験ができてよかったですね」と言えるかというような社会的倫理の話であって、個人の問題ではない。」)
※以下の質問は、初出の文章およびブログ掲載当初の文章に対して寄せられたものであることから、ここに修正前の文章の一部を記録しておく。「言い方がキツイ」というトーンポリシングを受け、修正を行ったが、筆者の基本的な立場、結論は、当初のままである。初出時の論考は、結論に「倫理上好ましくない言論や表現が、公の場において社会的な批判を受けることは、免れないのである。」と記載していた。
いただいた質問とそれに対する回答
以下は、論考を読んだ方から筆者であるるくんねに、寄せられた質問である。質問の一部を抜粋し、筆者の回答を転載する。※質問箱のシステム上、約一年で質問は消去される。個人的に記録を取っているが、画像の転載は利用規約に反するため公開することができない。
「現パロのアシㇼパの「選択」、当時のアシㇼパの「気持ち」は、不明であるため選択肢として残すべきではないか」
アシㇼパは実在しないため、残念ながら私たちは彼女の意見を直接聞くことができません。しかし、本文ですでに指摘したように「アシㇼパの和名」は同化政策の産物であるという史実に依拠した物語上の文脈を完全に消し去ることはできません。そのため、これをみだりに使用するという「創作者の判断」は、「同化政策の産物を肯定する」と捉えられる可能性が高く、批判されるであろうという結論は変わりません。(アシㇼパがどのように生きるかは彼女の自由ですが、それを「創作者」がどのように描くか/描かないかは「創作者の判断」となります。つまり、ここでは、アシㇼパの選択ではなく、「創作者の選択」が問われています)
「創作者が『安易にアイヌ名を選択する』ことへの懸念がある」
創作者が、「安易にアイヌ名を選択しているか」ということについて、私は創作者ではないので、判断がつきかねます。それは読者や閲覧者も同様です。ただ、この事態を重く受け止め対処している方に対して「安易に」と断じてしまうことは、大変失礼な発言であることは確かなので、直接創作者の方に対してそう言った発言をなさらない方が良いかと思います。
「『和名もアイヌ名もどちらもよい』という状態が本来の差別なき状態であるはずではないか」
確かに、和名もアイヌ名、何の強制も、葛藤もなく、自由に選ぶことができる、どちらでもよいという状態が実現することは、望ましいと思います。しかし、現実に、アイヌルーツを持つ方を始めとし、多様な集団に対する差別が蔓延し、差別を免れるために名前を変更せざるを得ない人たちが実在する中で、アイヌルーツを持つキャラクターの名前を「和名に変更する」ことが、どのような意味を持つのかと考えた時、それは構造的な差別、暴力の焼き増し、再生産になりえることをご理解ください。
構造的な偏りがあるなかでの「平等」は、構造の再生産に過ぎず、そこにある差別や不平等を解消する手立てとなりません。(平等と公平で検索すると、その違いを表す図などがありますので、ぜひ参考になさってください。)
また繰り返しになりますが、明治時代を生きる「アシㇼパの和名」は、物語/史実上、同化政策の産物という文脈を拭うことができないため、「アシㇼパの和名」の使用に、批判が向けられることは免れません。注*4にも記載しましたように、実在する個々の文脈においてはその限りではありません。
最後に、この論争において新たな「差別」が生成されるのではないか、というご懸念についてですが、まず、ここでは冷遇されるという意味合いで「差別」を使用しています。つまり、「正当な理由なく不利益を生じさせる行為」と言う意味であり、「アシㇼパの和名」使用に対する批判は、社会的な倫理上好ましくない表現/言論の指摘であり、正当な理由があると判断するため、これに当たらないと考えます。過剰な誹謗中傷や、侮辱、排除に関しては、この限りではありません。
また、本文にも記載していますように、「アシㇼパの和名」文脈を理解した上で行われる個人の判断の是非について、私は立ち入りません。
加えて私の個人的な意見としては、苛烈な論争が個人への攻撃に変換されていく状況を危惧しており、ツイッター上での一対一のやり取りではなく、質問者様がこちらのツールを使用してくださったように、お互いまとまった文章での対話を建設的に行った方が、望ましいのではないかと考えています。
(和名についての論考拝読しました。 もし良ければ貴方様の考えをお聞かせ願えたら幸いです。 | Peing -質問箱-:2022年6月9日)
「『表現の自由』について、どのように考えていますか?」
「表現の自由」とは、憲法第21条第1項が保障する表現の自由のことでしょうか? ここではそのような意味でご質問いただいていると理解します。基本的には、最高裁や法務省が出している解釈を支持します。以下、ヘイトスピーチ規制法などとの関連を説明した法務省の文章を引用します。
「表現の自由が保障されているからといって,ヘイトスピーチが許されるとか,制限を受けない,ということにはなりません。表現の自由を保障している憲法は,その第13条前段で「すべて国民は,個人として尊重される。」とも定めています。自分と異なる属性を有する者を排斥するような言動は,全ての人々が個人として尊重される社会にはふさわしくありません。」(ヘイトスピーチ規制法に関する裁判例:法務省https://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken05_00037.html)
インターネットのような不特定多数の目に触れる空間での言論・表現は、「個人の尊厳」を傷つけるものである場合、社会的倫理に反する場合、批判され、制限を受けざるを得ないと考えます。誰の目にも触れず独りで行う行動について、他者への影響が全くない場合などはこの限りではないのではないでしょうか。
(るくんねさんは「表現の自由」について、どのように考えていますか? | Peing -質問箱-:2022年6月9日)
「『自分の世界観において和名が好ましい』場合、それを選ぶのは創作者の自由ではないか」
質問者様がおっしゃるように、原作の要素をどのように二次創作に落とし込むかは、創作者の自由です。しかし、なぜ「自分の世界観において和名が好ましい」と感じてしまうのでしょうか? 私の問題提起はそこにあります。「あなた」は、なぜ、「和名を好ましい」と判断するのか。
アシㇼパには、「アシㇼパ」というアイヌ語の立派で美しい名前があります。「アシㇼパと言う名前は父がつけた。「新年」と言う意味だが、「未来」とも解釈できる」(『ゴールデンカムイ2』12話)とアシㇼパ自身が語っています。この名前は野田先生が思い付いたものだそうで、しかしその経緯を忘れてしまったらしいですが、アイヌ語監修の中川先生も「今ではもうアシㇼパ以外に彼女の名前は考えられません」(『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』:76)と言うほど、多くの人に浸透しています。
それでもなお、「自分の世界観」では「和名が好ましい」のはなぜでしょうか? アイヌ語よりも、日本語が良いと言うことは、絶対にありません。アイヌ語も日本語も、同じように素晴らしく、人びとの想いが託され、紡がれてきた言葉です。
その言葉(や文化、果ては人間)に優劣をつけ、アシㇼパという人間に、明治期にアイヌの人々に「好ましい和名を付けさせた」のが、和人です。こうした対応を国として行うこと、本来の名前を無視し、他者の尊厳を蔑ろにする対応を、「同化政策」といいます。「和名の方が、好ましい世界」では、アシㇼパは「和名」を使用せざるを得ない。貴方の「世界観」では、この「同化政策」も自然であるはずです。だとすれば、貴方自身がやはり、アシㇼパの名前を奪った「同化政策」や現在まで続くルーツの浄化を肯定的に捉えていると認識されうるのではないでしょうか。
どのような創作品なのか、文脈が分からないので、必ずしも、このように捉えることができない場合も可能性としてはあります。しかし、あなたのおっしゃる「和名が好ましい」と言う世界観は、アシㇼパの名前を奪った明治期、そしてアイヌ名が不自然と認識される現在の日本社会によく似ていますね。
最終的には創作者の自由です。この問題の当事者として「和名にせざるを得ない世界観」に共感するひともいます。もう一度言います、最終的には、創作者の自由です。アシㇼパはあくまでも創作の登場人物であり、彼女に選択権はないのですから。
「同化政策」を肯定、加担しているというのは、言葉が強すぎるのではないか」
言葉が強すぎるとご批判なさると言うことは、「同化政策」を肯定し加担することは、よくないことだと共感して頂けているのだと分かって安心しました。しかし、これは単なる事実の指摘ですし、言葉の強弱の問題ではありません。
「差別構造というが、個人の感性とは切り離して考えるべきである」
個人の感性は、まっさらな状態から、発生するものではありません。周囲の人間、社会との関わりの中で、何が正しく、何が間違っているのか、と言うことを常に示され、認識し、最終的に自分で判断をするという過程から、生成されていきます。そこに「自己」を見つけることは非常に難しく、自分で判断していると感じていても、それは今までの経験上の判断に過ぎないのです。
私の論考もそうです。多数の参考文献があります。複数の方から意見をいただき、推敲を重ねました。私たち人間は、そのように、他者と繋がり、対話し、たくさんの情報を得て、最終的な、今すべき判断を自分でしている。その積み重ねのおかげで、動物にはなしえない高度に抽象化された思考を生み出すことが可能になっているのです。
社会構造と個人は、完全に切り離すことはできません。なぜなら、私たちは孤立無援で生きていくことができない、非常に社会性の高い生物だからです。興味があれば、ミシェル・フーコーなどを参考にするとよいかもしれません。
(るくんねさんこんにちは。ふせったーのご意見拝見させていただきました。 | Peing -質問箱-:2022年6月12日)
*上記質問者からの応答*
「『和名が好ましい』と感じるのは、私が同化政策後の世界にいるからで、和名の使用を倫理上好ましくないとするのは、現在のアイヌルーツを持つ方に失礼ではないか」
注4にも記載しましたように、「明治38年(旅順攻防戦)前後を生きた「アシㇼパ」の「戸籍上の名前」と現代に生きるアイヌルーツの人々の名前が異なる文脈を持つ可能性を留意しておく。本文は「アイヌ和名」ではなく、「アシㇼパの和名」についての論考である。」という立場です。「和名を使った二次創作」という広い範疇の話はしておりません。
(るくんねさんこんにちは。 | Peing -質問箱-:2022年6月13日)
*上記質問者からの再応答*
「私の中では、原作と創作の世界観は分断されているので、アシㇼパの和名使用を倫理上好ましくないと言われるのは、言葉が強すぎる」
(おおよそトーンポリシングの一種であることは認識しつつ、以下のように返答しました)
質問者様の質問を読んでいて、「アイヌルーツの人の和名」と「アシリパさんの和名」は文脈が違う、安易に使用することが批判されている、文脈を理解した上で使用する件には、立ち入らないと何度も伝えているにも関わらず、ここまで伝わらないことに、驚くとともにこういった思い込みをされる方が、これから現れる可能性も少なからずあるのではと感じました。
批判は免れない、という言い方が、「きつい」とおっしゃりますが、このファンダムが昨年同様の問題提起をされた際、声を上げた個人を「部外者」として無視したことをご存知でしょうか。どのように発言すれば、無視されることもなく、言い方がきついと批判されることもなく、ファンダムに問題提起ができるのか、非常に悩ましい問題です。
「倫理上好ましくない言論や表現が、公の場において社会的な批判を受けることは、免れないのである。」とは、この問題提起を行った個人に対して「所詮は個人のお気持ち」であるとか、「(誹謗中傷を批判した人たちに対して)ファンネル」といった発言が見られ、事態を矮小化し、かつてのように収束させようとする動きがあったためです。
この文脈を知らない方には少しきつく映るのかもしれません。また冒頭の説明も足りていないと感じますので、記事としてまとまりをもたせた文章に変えていきたいと思います。
そして、論考を出してからすぐ、「アイヌルーツを持つ日本語名を使う方」の意見があることをご指摘いただき、注4「*4:明治38年(旅順攻防戦)前後を生きた「アシㇼパ」の「戸籍上の名前」と現代に生きるアイヌルーツの人々の名前が異なる文脈を持つ可能性を留意しておく。本文は「アイヌ和名」ではなく、「アシㇼパの和名」についての論考である。現実を生きる各々に個人的な文脈があることは、全く否定されるべきではない。それぞれが愛着を持った名乗りを得て生きていけることを願う。」を追記しました。
ですが、この文章を「アイヌルーツの和名を使用する方」が読んだとき、どのように捉えるかということの詳細までは、正直、私にはわかりません。今現在も、彼らに対して執拗な攻撃が続いており、連絡は頻繁につかない状況ですので、今後、意見を伺う機会があれば、少しずつ見直していこうと思います。
そして、あなたの創作物に関しては、あなた自身の言葉で説明を尽くし、読者あるいは閲覧者に納得していただければ良いと思います。その際に過度な誹謗中傷等を受けた場合は、その主張の妥当性の有無より、まず先に、あなたの心をお守りください。それから問題や批判をゆっくり吟味し、考えていかれることが重要かと思います。
(るくんねさんこんにちは。 | Peing -質問箱-:2022年6月14日)
「『現代に生れ付いた日本人に和名を持たせないことはできない』から、アシㇼパの和名を使用しているだけなのに、批判されたくない」
「現パロ」の描写について「現代に生れ付いた日本人」としてアシㇼパを登場させるとおっしゃいますが、アシㇼパさんはロシア帝国支配下にあったポーランド人(修正6/15)のアチャと樺太アイヌのルーツを持つ人間です。なぜ「日本人」にする必要があるのでしょうか。
現代日本には多様なルーツを持つ人々が暮らしています。アイヌルーツを持つ人ももちろん、琉球や海を越えた国のルーツを持つ人もいる。なぜ、貴方は、アシㇼパさんを日本人にしたいのか。そのルーツを改変した「創作」をするのはなぜですか。よく考えてみてください。なぜアシㇼパさんはアイヌルーツを抹消され、日本人として描かれなければならないのでしょうか。
現パロのアシㇼパの和名はダメなのに、なぜアイヌルーツを持つ方の和名はいいのか
これは、論考の最後に記載した「選択」の問題です。かつては「和名」を強制されたこと、しかし、アイヌルーツを持つ実在の方々は、明治期に生きてアイヌ名を持っていたか、と問われれば、答えはNoです。また彼らがもし、選択の自由を与えられていたら、どちらを選ぶのか、それもまたわからない。「和名が好ましい日本社会に生きるために、和名を選択した」。それは、本当の意味での自由な選択ではないことが分かります。アシㇼパさんに和名を付けること、それを使用することを一律にダメだと言えないのは、自身のルーツ、現在の日本社会の状況下で、自身に近づけた選択をしたいと言う方ももちろんいる可能性があるからです。他の方の質問でも、記載しましたが、「最終的には創作者の判断」です。
「和名を使うことを問題視しているようだが、結局は「見たいひとだけが見る」でいいのではないか」
「和名を使うことを問題視している」とおっしゃいますが、私は、「アシㇼパの和名を濫りに使用すること」を問題視しているのです。
正直、問題視していると言うよりも、あまりにも、批判している人間の視点を理解できない人が多いことに気づき、危機感を抱いたのです。実在の個人が、自身のルーツ明らかにしてまで、公に問題提起をした。質問者様が、「自分の創作物が批判されるのではないか」と怯える以上の恐怖だったと思います。実際に、見るに堪えない誹謗中傷が、その方に向けられました。
私たちは、自分の創作物うんぬんよりもまず、何より先に、多くのアイヌルーツを持つ人々の協力が合って完成した作品のファンが、アイヌルーツを持つ方へヘイトスピーチを行い、ファンダムがそれを阻止できなかったことをまず、省みるべきだと思います。
私が受け取ったメッセージの中には、「キャラクターの和名を使用できないからとアイヌルーツを持つ方に攻撃するという行為に驚愕してしまいました。(略)自分に都合の良いキャラの萌えが見れなくなってしまうことによる暴走。それは稀に見る酷さであり、界隈に対策内省がないのなら二次創作を全面的に禁止したほうが良いのではないか」というような意見をすでにいただいております。
ご自分の公開した創作物について、責任が持てないのであれば、一度、立ち止まって考えてみてください。すでに結論が出ているのなら、自身の選択に従うのが良いでしょう。しかし、その公開には責任が伴うのです。自分の作品を公開したいが、他人に批判されるのは嫌だというのはあまりに身勝手ではないでしょうか。
私たちはもっと危機感を抱かねばならないのです。現実にゴールデンカムイのファンダムから、凄まじいヘイトスピーチが発生したことを受け止め、考える必要があるのです。
あなたの中では、「見たい人だけ見ればいい」で済む問題でも、このファンダムから発生したヘイトスピーチの醜悪さは「二次創作など全面禁止にしたほうがいい」と思われるほどの社会的倫理の欠如の露呈だったのです。そして、そうならないように、私は、皆様に少しでもことの深刻さと、これからのファンダムの在り方を考えてほしいと思い、ここに議論の場を設けました。決して一方的にどちらか、何かを断罪する立場にありません。一個人がそのようなことをできるはずもありません。どうか、その点、ご理解ください。その他の質問はすでに回答済みのものを含むため、以上とさせていただきます。
(るくんねさん、はじめまして。 私はアシㇼパさんの和名を使った現パロ二次創作をしています。 | Peing -質問箱-:2022年6月13日)
この問題に関わる××××(特定の個人/属性/集団)は、○○○○○(思想/属性/言動/態度等)であるから、その意見/主張/発言は、信用ならないのではないか。
上記のような、私を含む特定の個人、属性、集団に対するコメント/メッセージは、個人攻撃・人身攻撃に値するため、今すぐやめてください。それは、意見や主張ではなく、特定の個人や主張をする人々の人格を攻撃し、その意見/主張/発言の信用を貶めることを目的にした「対人攻撃論法」の一種です。
妥当な議論の成立を阻害する非常に巧妙で悪質な(時に無意識の)人格攻撃です。論証や意見、主張は、その内容の事実の確認や根拠を持つ反証によって、反論し得ても、その発言者そのものに対する攻撃や懸念によって否定することはできません。それは、明白な論点のすり替えです。
ツイッター上では、この件の主張や立場に関係なく、頻繁にこの個人攻撃が行われており、双方が個人的な攻撃を互いに行ってしまったり、自分と主張を異なる集団に対してこのような論法により「意見/主張の批判」を行おうとする例が目立ちすぎています。
この論法による結論は、前提が間違っているため、妥当なものとなりえません。しかし、人格攻撃によって、発言者を委縮させます。一見論理的な批判にも見えるために、この攻撃を受けると混乱し、自分の発言に自信が持てなくなります。これは非常に巧妙な論理のすり替えであり、このように非論理的な主張の否定を行うと、健全な議論が成立し得なくなります。
あなたが議論や他者との対話の中で、極度に傷ついたとき、この可能性を考慮して、一度、議論の場から降りてください。それは既にまともな議論とは言えず、その言説は、批判的な思考といえない類のものです。議論とは本来、双方/多様な意見を傾聴し、再度自分を見つめなおすことで、思考の醸成を行っていくものであり、「傷つけあう」ものではありません。
インターネットにおいて言論を発信することは、公の場であることを想定するべきである、と、同時に、その個々の発言について注意を促す時、反論を行う時、こうした個人攻撃になっていないか、今一度、立ち止まるべきです。
この議論の場において「匿名」で意見を掲載するのは、こうした人格攻撃による論点のすり替えを極力避けるためです。またこの不用意に攻撃的な、非論理的なメッセージは、公開することによって多くのとひとを傷つけ、惑わすために、一切、掲載いたしません。応答もいたしません。
(参考:人身攻撃 - Wikipedia、個人攻撃 - Wikipedia)
その他応答済みの質問
- 自分の解釈違いを押し付けているだけではないか
応答:それはとんだ解釈違いですので、ここで本人から否定します。(質問者とあなたの回答が噛み合っていないように見えるのですが | Peing -質問箱-:2022年6月14日)
- 多様な立場の人がいるのに、意見が言えない状況に陥っている。双方の意見を聞いた方がいいのではないか。
応答:論考を遂行した時点で、すでにアイヌルーツを持ちつつ、アシリパの和名使用に納得している方のご意見を伺っております。また、この状況を危惧してブログと質問箱を開設しました。もしよければ拡散にご協力ください。
(るくんねさんの論考、とても勉強になりました。 | Peing -質問箱-:2022年6月13日)
- 自分で調べてみたけど、結論が出せない。わからない。
応答:「わからない」と立ち止まること、とても重要だと思います。私も、この差別問題について、歴史的同化主義について、「何も言えない」状態がかなり長く続きました。だから、質問者様にも、ブログなどを読んでくださった皆さんにも、今ここで判断しろと言うつもりは毛頭ありません。そのため、タイトルは「立ち止まって考えてほしい」となっています。 - (ファンダムにおける意見への応答にて)衣裳にアイヌ意匠を入れるという案を示していたが、なぜアイヌだけ特別な配慮をするのか。平等ではないのではないか。
応答:アシリパさんの服装については、「平等」と「公平」の話がわかりやすいかと思います。すでに偏りのある、歴史的な服装を始めとした文化の剥奪があった状況で、マイノリティとマジョリティを「平等」に扱ったところでそれは、その偏りの是正にはなりえないのです。
(上記二点:アシリパを「明日子」と書くことですが、ポカホンタスを「レベッカ」と書く、アパッチ族の戦士を「ジェロニモ」と書く、 | Peing -質問箱-:2022年6月12日)
※本文を読んで、吐き出したい気持ちが溢れた場合など、言語化のついでに私の質問箱に放り込んでくださっても構いません。基本的に返答いたしますが、すでに回答済みの質問と重なる場合は返信できない場合があります。また、特定の個人、属性を対象にした不用意な情報、人格攻撃を含むメッセージは建設的な議論の構築を妨げるため、無回答といたします。
「棲み分け」に関するご質問を複数頂いておりますが、現在まだ応答ができておりません。少々お待ちください。私に対してなにかの是非を問う、前に、ぜひご自分で今一度このファンダムにおける状況を省み、お考えになってくだされば幸いです。
私に、一個人の選択を取り上げて批判する権利はなく、また、そういった行為の論拠とされることも望んでおりません。
別記事では、「ファンダムにおけるアシㇼパの和名使用に関して寄せられた意見 - 言葉は力」を掲載しております。
今後、新しいメディア展開があった後などに、特に新規ファンが獲得されたときに慣例的に問題提起していければと思っています。ご協力いただける方はどうぞよろしくお願いいたします。
質問箱は常に開いております。しかし、筆者も労働者としての日常があるため、回答に時間がかかることもあります。ご了承ください。意見/質問の目的を明確にするため、「アシㇼパさんの和名についての意見/質問です」など一言入れてくださると、明瞭な応答、ブログへの掲載が可能になります。ブログには掲載しないで欲しいと言う場合は(ブログ×)と記載し、ご投稿ください。こちらの判断で掲載場所を選択する場合があります。
掲載された内容の権利はpeingにほぼ全権委託されてしまうので、利用規約的に使いたくない方は、るくんね宛にDMしてくださっても構いません。その場合も引用掲載時は匿名といたします。